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終末期医療の真実

2015-12-27
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 筆者の父が経口による栄養摂取が困難となり、A病院で点滴を受けるようになってからすでに2年が経つ。どの病院でも入院期間には限度があり、昨年末、そろそろ転院を検討してほしいとの打診があった。そのため筆者は、医療相談室を通じて転院先を照会してもらった。
 最初B病院に見学に行き、そこの医師とソーシャルワーカーと面談したところ、栄養補給や抗生剤投与のための点滴以外の積極的治療は一切行われない、と言われた。父親は、胆管に石がたまりやすいため、A病院では胆管にステント(管)を挿入し、内視鏡によるステント交換が定期的に行われていた。そこで、交換の時期になったとき、A病院に搬送してもらえるか尋ねたところ、答えは否であった。筆者は耳を疑った。生命維持上不可欠な治療を行うという目的にも関わらず、他病院への搬送は認められないというのだ。これでは、実質的な「安楽死」ではないのか(治療中止という意味で。但し、後述する老衰死[=安楽死]とは異なる)。しかも筆者の場合、しつこく説明を求めたからこそわかったのであって、多くの場合家族の者は、安楽死が行われていることに気づかないまま入院させてしまうのではないか。無論話し合いは決裂に終わり、筆者はB病院を後にした。
 次の候補先であるC病院には、B病院と異なり療養病棟以外に一般病棟もあり、さらに先進医療やERも行われていた。面談の際、ソーシャルワーカーのみが対応し、医師は同席しなかった。ここで筆者は、前回同様ステントの話をし、また、苦痛が伴う場合を除いて、延命治療は行ってほしいと述べた。父親は、太平洋戦争中南方に出征し、九死に一生を得て帰ってきた。そのせいか生への執着は人一倍強く、ゆえに現在国民の9割が延命治療を望まないとされているが、少数派の1割に属すると考えられたからである。筆者の申し出は了承され、C病院への転院が決まった。
 さて転院の当日、副院長と面談すると、ステントの話は聞いていないと言う。しかも、C病院ではB病院同様、積極的治療は行われていないということだった。これでは話が違うので、筆者もステントの件は強硬に主張した。副院長の方もやや気色ばんだ様子で、
「そういうことなら、積極的治療をどんどんやりましょう。私も本来はそういう主義なんだ!」
と開き直ったように言った。
 さらに、
「なぜ、どこの病院も終末期に積極的治療をやらないのかと言えば、積極的治療をやれば病院経営が赤字になるからだ。文句があるなら厚労省に言ってほしい」
と本音を漏らすようなことまで語った。
 転院早々一悶着あったわけだが、それでも一応入院することにはなった。しかしこれも、1カ月も経たないうちに終止符が打たれる。すなわち、父親が発熱しだしたので、急遽A病院に移すと言ってきたのだ。要するに、やっかいな家族がいるので、元の病院に追い返すと言うわけだ。副院長は積極的治療を行うなどと言っていたが、この病院には内視鏡によるステント交換のできる消化器専門医はいなかった。幸いA病院は受け入れてくれ、現在もここで入院している。C病院は搬送してくれただけ良かったが、もし最初にB病院を選んでいたとしたら、今頃亡くなっていた可能性が高い。
 B病院で話を聞いた時、ここは例外的な病院なのだろうと思った。しかし、C病院の副院長が語ったように、積極的治療をやれば経営が赤字になるとすれば、ほとんどの医療機関において、終末期には同様の措置が取られているということになる。ちなみに、積極的治療とは外科手術や化学療法、放射線療法など、患者にとって負担の大きい侵襲的治療のことをさす。しかしB病では、栄養補給や抗生剤の点滴以上の治療は積極的治療と捉えている節がある。またC病院においても、内視鏡によるステント交換のような非侵襲的治療も積極的治療と見なしているようだ。療養病棟における終末期の患者に対して積極的治療は行わないと言っても、積極的治療の定義そのものが曖昧なのだ。そして、終末期に治療しないことを「消極的安楽死」と言うのだが、この場合の治療の定義も必ずしも明確ではなく、むしろこれをどう定めるかが生命倫理学上の重要な課題となっている。ということは、多くの療養病棟で採用されている積極的治療は行わないという医療行為の中には、消極的安楽死が含まれることになる。

 言葉を少し整理しよう。終末期において回復不能な病状にある時、治療しないことによって死に至らしめることを「消極的安楽死」という。この場合、本人もしくは家族の者が安楽死に関する意思決定を行う。通常、終末期の段階では意識がないか、あるいは意思能力が極端に衰えているため、家族の者が本人に代わって事実上の意思決定を行う場合が多い。すなわち、死の決断という重大な意思決定が、家族とは言え本人以外の者によってなされることになる。一方、「積極的安楽死」とは、致死量の薬物を投与することによって死なせることである。オランダ、ベルギー、スイス及びアメリカの一部の州で容認されているが、日本では厳しく規制され、違法性が認められれば殺人罪が適用される。なお、日本における積極的安楽死に関する判例では、本人の自発的意思に基づくことが要件とされている。
 一方、尊厳死とは、事前に確認された本人の意思表示に基づいて死なせる場合のことをさす。つまり、究極の自己決定ということになる。尊厳死の適用段階においても、意識を失っている可能性が高いため、事前にリビングウィルをしたためておく必要がある。自己決定なのだから一見良さそうにも見えるが、もし尊厳死が法制化された場合、重篤な患者や障害者が尊厳死を迫られ優生思想が助長される恐れがあるとして、障害者団体を中心に根強い反対がある。極論を恐れずに言えば、尊厳死が自殺概念の外延にあるとすれば、安楽死は他殺概念の外延にあると言えるのではないか。(但し、積極的安楽死を除く)
 先日、NHKスペシャル「老衰死:穏やかな死を迎えるためには」が放送された。この番組において「老衰死」とは、栄養の経口摂取が困難になった段階で、点滴(栄養補給を含む)や胃ろうなどの延命治療を中止することなので、明らかに「消極的安楽死」を意味する。番組制作者は、「老衰死」が「消極的安楽死」であることを知りながらこの言葉の使用を避けているが、それは視聴者からの反発を恐れてのことだろう。そして、この番組では、老衰死に至る過程における本人や家族、そして医師の姿が美しく描かれていた。
 また、同番組では、「自然死」という言葉も使われている。大体90歳前後から老衰死の対象となるようだが、この年齢に達すると徐々に細胞の自然消滅が始まり、生体が死への準備を始めるという。しかし、これをもって自然死と言い切るのは少し乱暴であろう。人間の限界寿命を130歳とする説もあるし、自力栄養摂取が困難になった段階で消極的安楽死が認められるといった議論は、果たして生命倫理上コンセンサスを得ているのであろうか。要するに栄養を絶つことによって死なせることなのだから、「自然死」と言うよりは「餓死」と言った方が正しい。
 冒頭で述べたように、筆者の父親の場合、この番組が推奨する「老衰死」のタイミングを過ぎてから、すでに2年が経つ。その間に、看護師が舌を巻くような見事な人物画を描いてみせているし、つい最近も、大分乱れてはいるが、ちゃんとした漢字で「駅前に外出したい」という文字をしたためていた。筆者が訪問すれば短い会話を交わすし、意識が存在することは明らかに見て取れる。この意識の連続性を、本人の希望や承諾なしに勝手に絶ち切ることは、家族にとって忍びがたいものである。苦痛があれば別だが、父親を見ている限り、延命治療によってそれほど苦しみを受けているようには見えない。筆者には、意識や苦痛の有無が、決断の際の一番重要なポイントであると思われるのだが、同番組ではこの点には触れず、「自然死」などといった抽象的概念によってお茶を濁し、問題の本質から目を背けている。さらに老衰死は死期の前倒しにつながるようにも見えるのだが、この背景には、医療とは直接かかわりのない別の要因が絡んでいると推測される。

 日本の平均寿命は、男性80.1歳、女性86.6歳と世界1位である。しかしそのうち、健康でない寿命期間が、男性では約9年間、女性では約13年間含まれている。そして、この期間における医療費や年金の負担が、国の財政を圧迫していることは確かであろう。日本の医療保険制度は充実しているため、富裕層でなくても延命治療に手が届き、胃ろうの実施率は世界1位であり、他の先進国の追随を許さない。そして権力の中枢にいる官僚たちは、医療費等の増大要因となる不健康寿命期間をできるだけ圧縮したいと考えているのではないか。あからさまに言えば、「早く死なせるための政策」が必要ということになるが、さすがにこれは公言できない。それが、不透明かつ曖昧な消極的安楽死の「普及」の背景にある、と筆者は睨んでいる。これは、C病院の副院長が思わず口走った言葉とも一致する。延命治療の長期化が病院経営を圧迫するとすれば、経営者の立場としては、消極的安楽死に誘導すべく家族の者に働きかけざるを得なくなるだろう。NHKスペシャル「老衰死」の中では、院長自ら家族の者に対して老衰死を説得する場面が美談にされていたが、これでは、国策を後押しするためのプロパガンダと疑われても仕方がない。同様のことは、高齢者の誤嚥性肺炎をめぐっても言えるのだが、紙幅の関係でこれについては言及しない。
 筆者は、本人の利益やQOLの観点から考えて、消極的安楽死は必要だと考えている。しかし、積極的安楽死が厳しく規制されている一方、消極的安楽死に関しては何の規制やルールもないといった現状に対しては危機感を抱いている。消極的安楽死と言っても、栄養補給が絶たれれば数日後には確実に死ぬことはわかっているのだから、道徳上もQOLの観点からも、積極的安楽死と大きな違いがあるわけではない。薬物投与によって死なせれば殺人罪に当たるが、点滴を止めることによって餓死させることは野放しというのでは、明らかにバランスに欠いていると言えよう。
 また、消極的安楽死の決断は、多くの場合、本人に代わって他人が行うものなので、尊厳死よりも一層慎重な手続きが求められるはずである。ところが、尊厳死法には反発が強く法制化さえままならないのに、消極的安楽死の方は批判に晒されることもなく常態化しているというのも不思議である。尊厳死の場合、現在、公証人による尊厳死宣言公正証書があるが、利用者はごく僅かで、ほとんどの場合消極的安楽死が選択されている。
 今日、消極的安楽死は法律の抜け道となっており、そのため違法性の高い不審死が闇に葬られている可能性がある。これは噂に過ぎないが、ある老人施設では、新規入居者の予約確保と入居中の終末期高齢者の安楽死が時期的に連動しているという。もしこれが単身高齢者の場合なら、ゾッとするような話である。また、B病院の事例で見たように、十分なインフォームド・コンセントもされないまま、入院契約時に、死出の旅路の片道切符を買わされるようなことにもなりかねない。
 今の法律ではこれらは違法ではないが、こんなことが簡単に許されるようでは道徳的頽廃の極みと言う他ない。かつて、人命は地球より重しと言った総理大臣がいたが、終末期の高齢者においては、人命は羽毛より軽ろしと言えるのではないか。財政問題が重要でないとは言わない。しかし、そういった事柄も含めて、この問題を白日の下に晒し、消極的安楽死の規制やルールに関する国民的議論が一刻も早く必要であろう。日本は、すでに「安楽死大国」となりつつあるのだから……。


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