司馬史観を疑え!
2008-04-06
その他
テーマとは関係ない与太話に、もう少しおつきあい頂きたい。思考のモヤモヤを吐き出してしまわないと、次の話題へ移れそうにないので……。
司馬史観は、太平洋戦争を絶対悪とした反面、日清・日露戦争を賛美したものと言われている。司馬遼太郎が「坂の上の雲」で描いたのは、日露戦争のみだったが、日清戦争についても少しだけ言及している。
「日清戦争は、天皇制日本の最初の植民地獲得戦争である……清国は長いこと朝鮮を属国視していた……清国は暴慢であくまで朝鮮に対するおのれの宗主権を固執しようとしたため、日本は武力に訴えてそれをみごとに排除した……前者にあっては日本はあくまで好悪な、悪のみ専念する犯罪者の姿であり、後者にあってはこれとうってかわり、英姿さっそうと白馬にまたがる正義の騎士のようである。国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、今の歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり……」(「坂の上の雲」)
要するに、日清戦争に関しては、正義の戦争とか侵略戦争とか白黒つけるべきではないと言うことだ。もちろん、日露戦争に比べて、トーンダウンしていることは否めない。
最初に断っておくが、私は、佐高信のように司馬遼太郎を批判する気は毛頭ない。作家は、歴史的事実を自分の頭の中で再構築するものだから、物語をつくる上での取捨選択は必ず必要であろう。また、「太平洋戦争=絶対悪」「日露戦争=絶対善」という、単純な図式があった方が、創作意欲をかきたてられると言った面もあるだろう。
しかし、そのイメージを読者がそのまま鵜呑みにすることには、弊害がある。司馬史観を知る知らないにかかわらず、このような見方が、戦後日本の土壌にはしみついているため、メディアリテラシーの観点からも、このような図式に安易に流されないよう、注意が必要である。
日露戦争(1905)と太平洋戦争(1941~)との間には、わずか36年の時間差しかない。司馬史観によれば、この短い間に日本人は、最も美しい姿から最も醜悪な姿へと変貌を遂げたことになる。ちなみに、1923年(大正12年)生まれの司馬遼太郎は、終戦を22歳で迎えている。それに比べ、日露戦争は生まれる18年前に起こったものであるから、当然直接体験はしておらず、父親の世代の昔語りとして何度も聞かされたことであろう。
最近、「オールデイズ 3丁目の夕陽」という映画がヒットしたが、あれは1960年代の東京を描いた作品である。40年という時の経過は、ノスタルジーを感じるのにちょうど良い距離感なのかもしれない。青年時代の司馬遼太郎にとって、日露戦争とはちょうどそのような距離関係にあり、「遠景は美しい」という心地よい錯視に引き込まれていった可能性は十分にある。
もちろん、このようなノスタルジーだけで、司馬史観は成立しえない。だから、明治の人間が美しかった理由について、彼なりの解説を試みている。すなわち、この時代は武士道の精神がまだ残っており、それに新しく流入した西欧思想がブレンドされ、その絶妙のバランスが奇跡的に素晴らしい日本人を次々に輩出させた、というものだ。その一例として、日露戦争の秋山真之、秋山好古、東郷平八郎、乃木希典、児玉源太郎、また他にも、西郷隆盛、大久保利通らを挙げている。一方、井上馨、山県有朋、伊藤博文などについては、武士道から近代合理主義へと鞍替えし、計算高さや権謀術数まで身に付けてしまった者として、あまり評価していない。要するに、朴訥で、正直で、勤勉実直な人々を、司馬はこよなく愛したのである。
司馬は、明治人の気質について実際に見知っているはずであるから、恐らく身近にも魅力的な人々が多数いたのであろう。しかし、明治人の美質が純粋に結晶化されたものが日清戦争や日露戦争であるかとすれば、やはり異論を感じざるを得ない。前回見てきたように、日清戦争は、司馬が嫌う計算高さや権謀術数が前面に現れた戦であった。
それでは、日露戦争についてはどうか。司馬が言うように、日露戦争はロシアによる100パーセントの侵略戦争であり、祖国防衛戦争として賛美されてよいものなのだろうか。
もしこれが、北海道で起こったのなら、このような主張も頷けよう。しかし、日露戦争は、朝鮮と満州の領有権をめぐる争いである。司馬は、もし日本が敗北すれば、日本はロシアの植民地となり、日本人はすべてなんとかスキーという名前になっていただろうなどと言うが、これは少々大袈裟な物言いではなかろうか。ロシアがポーランドやフィンランドを侵略したからと言って、極東の日本にまで食指を伸ばすことが地政学上可能であったかは疑問だし、帝政ロシアはすでに末期症状を呈していたはずである。また、当時にあっても、山本権兵衛のように「韓国の如きはこれを失うも可なり。帝国は固有の領土を防衛すれば足れり」といった意見もあったのである。
また司馬は、外交交渉は不可能であり、日本はロシアの一方的な強硬姿勢に対して、窮鼠猫を噛むような形で開戦に踏み切ったと述べているが、これとは全く逆の話もある。すなわち、ロシア皇帝ニコライ2世は、日本との開戦に消極的で、主戦論者のアレクセーエフ極東総督から動員権を取り上げてまで、戦争を回避しようとした。さらに、ロシア側は皇帝の裁可を経て日本の主張を受け入れた妥協案を提示しようとしたが、一足違いで開戦には間に合わなかった(原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書 2007)。
さらに、その後の歴史をひもとけば、日露戦争から5年後の1910年には、日韓併合が行われ、はからずもこの戦争の本質を露呈させている。日清戦争の時の日本側の主張は、朝鮮は独立国であり、清国の属国であるのはおかしいというものだったが、そのわずか15年後には前言を翻し、自らの植民地にしてしまったのだから、まったくひどい話である。
韓国では、今も日露戦争とは言わず露日戦争と言っているそうである。この国では、尊敬している国から順番に名前をつける。もちろん、日清戦争ではなく清日戦争である。前回触れた閔妃も日本よりロシアを頼りにしていたために、日本の軍事介入を受け、結局日本人によって暗殺されてしまったのだ。
司馬は、後の時代には見られない第一級の人材がキラ星のごとく出現した明治は、大正や昭和とはつながらない、一個の独立した文明ではないかと述べている。そして、これは、このような明治人のバックボーンには武士道があったからだとしているが、最後に武士道の問題について少しふれてみたい。
ところで、武士道の経典と何であろうか? 新渡戸稲造の「武士道」(BUSHIDO: The Soul of Japan)が挙げられるが、アメリカで出版されたこの本は、海外へ日本を紹介するためのプロパガンダの書であり、騎士道と武士道が比較して論じられている。また、新渡戸自身はクリスチャンでもある。
さらに、遡れば、江戸中期、佐賀藩・山本常朝の「葉隠」がある。三島由紀夫はこの書に対して冷ややかで、「葉隠」は平和な時代に書かれたものであり、この本の作者も畳の上で死んでいると皮肉っている。
考えてみれば、武士が最も武士らしくあった戦国時代においては、下克上の、主君を裏切ることが当たり前の時代であり、ある種のモラルハザードが世の中を覆っていたと言えるのではないか。
また、明治から昭和にかけて武士の鑑とされた楠木正成は、悪党であり、河内を地盤とした海運業者であったとも言われている(諸説ある)。いずれにせよ、幕府の御家人を武士の正統派とすれば、楠木正成などはアウトサイダーもいいところであり、この家格の低さが後年の悲劇へとつながる。ちなみ、千早城の攻防では、伝統的な戦いの仕方で攻撃しかける鎌倉勢に対して、山城から丸太を転げ落としたり、熱湯を浴びせたりして抵抗したが、村松剛は、この戦いでの鎌倉方の1日の死傷者数は、近代兵器を用いたサイパン上陸戦に匹敵すると述べている(「帝王後醍醐」)。言わば、楠木正成は、殺戮の合理性を徹底的に追求することによって、伝統(すなわち、当時の武士道)を墨守する鎌倉勢に対して手痛い打撃を与えたのである。
このように武士道の概念自体、有為転変するものであり、幕末の武士道などは、形骸化されたものであったと言えるのではないか。また、平和が長く続き、武士が単なる官僚になっていた江戸末期において、武士道は、単なる支配のイデオロギーと庶民の目に映っていた可能性もある。
また、司馬史観によれば、明治人の高いモラルは、指導者だけではなく庶民にまで広く行き渡っていたとされている。そしてその一例として、一般の兵士たちの戦闘における勇敢さを挙げている。
「二〇三高地を守るロシア人は、日本人の執拗かつ信ずべからず勇敢さに、精神的動揺の振幅をすこしづつ大きくしていった。たとえば、ある部隊は全員たおれたが、数人がなお狂ったように駆け上がることをやめなかった」(「坂の上の雲」)
「坂の上の雲」では、勇敢な日本兵士のシーンが随所に出てくるが、私は、これとそっくりの描写に埋め尽くされた小説を知っている。
それは、山岡荘八「小説太平洋戦争」である。山岡荘八は、従軍記者だったから、リアルな戦争については、司馬よりも熟知していたと言えよう。戦前教育では武士道が強調されていたため、これも武士道の産物だったと言えるのかもしれない。しかし、太平洋戦争を全否定する司馬史観では、これをどのように説明するのだろうか。
武士や兵士を含む戦闘者の勇猛果敢さを説明する原理として、もう一つ重要なものがある。それは、「野性」である。
これは、司馬遼太郎に勝るとも劣らない、時代小説の大御所、吉川英治の作品にしばしば登場する言葉であり、一方、中世史のスターである網野義彦の歴史学におけるキーワードでもある。
吉川英治(1892~1962)と網野義彦(1928~2004)は時代も思想も異なるが、吉川英治の「私本太平記」の中世観と網野史学はどこか似ているところがある。「私本太平記」では、散所という網野が脚光を当てた世界に言及しているし、明石覚一という漂白の盲僧に重要な役割が与えられている。
「武士道」が自己規律や滅私奉公などの精神主義、理性主義であるのに対し、「野性」は人間の奥深いところから突き上げてくるエネルギーであろう。
日露戦争だろうが太平洋戦争だろうが、極限状況の中で、理性が兵士たちを敵弾に突撃させるとは到底思えない。ちなみに、私の父親は、大正7年生まれで、南方を転戦し、恐らく1パーセント以下の生存率の中を生き残ったものと思われる。普段戸締りに関してなど極端なほど臆病だが、戦闘機に乗ったときは恐怖感はなかったと言っている。極限状況は、普段眠っている本能にスイッチを入れさせ、日常の性格からは想像もつかない行動へと駆りたてるのではないか。
そして、人間を最も魅力的に輝かせるのも、理性というよりは、もっと本源的な力ではなかろうか。
時代の転換期に、このような力が濃厚に吐き出されるということがあったのかもしれず、これがもしかしたら、司馬史観における人間像と重なってくるのかもしれない。しかし、それは時代の裂け目から噴き出た溶岩のようなものであり、一瞬鮮烈な閃光を放ったものの、急速に冷却・凝固し、やがて国家という巨大な岩石の一部と化して行ったのではないか。そして、このきらめきの象徴たる西郷隆盛は下野し敗れ去り、主流は伊藤博文や山県有朋たちとなっていった。また、民法を初めとする諸制度が整備され、構築された強固な岩盤は現代に至るまで連綿と続いている。
司馬は、太平洋戦争に対する憎悪とノスタルジーとが相まって、この時代の英雄たちに対して過剰な光を当て、明治と言う別個の文明体系を幻視したのではなかろうか。そして、武士道もまた、そのような眼差しによって捉えられ、過剰な意味合いをもたされたに相違ない。