新春番組二選
2015-01-17
その他
年末年始は、例年の如く新春のスペシャル番組が目白押しであった。いつもこの手の番組には食傷させられるのだが、印象に残ったものもあったので、二つだけ紹介させて頂きたい。
一つ目は、「100分de日本人論」(Eテレ)である。いつもとスタイルが異なり、四人の評者がそれぞれ名著を一冊ずつ取り上げ、それらについて皆で語り合うのだ。松岡正剛氏が九鬼修造の『「いき」の構造』、赤坂真理氏が折口信夫の『死者の書』、斎藤環氏が河合隼雄の『中空構造日本の深層』、中沢新一氏が鈴木大拙の『日本的霊性』をそれぞれ選んだ。
各界の識者が年頭に選んだ一冊とあって、粒ぞろいの名著ばかりである。しかし、紙幅も限られているため、一冊に絞って紹介してみたい。それは鈴木大拙の『日本的霊性』である。元英語教師だった大拙は、恐ろしく達者な英語力を駆使して、海外、とりわけアメリカに仏教を広めた最大の功労者である。60年代、アメリカで「ZEN」ブームが起こるが、その立役者はなんといっても鈴木大拙である。彼の仏教観を一言で言うと、平安仏教(主に密教)の否定と鎌倉仏教(禅宗、浄土真宗)の肯定である。すなわち、平安仏教はプロだけの世界であったが、鎌倉仏教によって初めて、宗教が民衆の生活にまで根を下ろした、ということになる。
大拙は、鎌倉仏教の特徴を、①大地性、②莫妄想、③無分別智と、三つの観点から捉える。①の大地性とは、以上述べたようなことである。②の莫妄想(まくもうそう)とは、ちょっと聞きなれない言葉だが、「妄想すること莫れ」と言う意で、中沢氏によれば、「イリュージョンを排せよ」ということになる。③は聞いたことのある人も多いと思うが、無分別智とは、物事を細分化して見るのではなく、直観的に全体把握することだと中沢氏は解説している。司会の伊集院光が「よく分別盛りなどと言って、分別はいい意味に捉える人が多いと思うけど、考えちゃいけないってことですか?」と、鋭い突っ込みを入れた。これに対して松岡氏は、「分別しちゃいけないということではなく、分別には限界があるということ」と回答している。
そして大拙は、これらの具現者として、「妙好人」(みょうこうにん)という人間像を提起する。妙好人とは、浄土宗の在家の篤信者のことで、その具体例として、岩見の船大工、浅原才市を挙げている。仏教的理想像として大拙が挙げたのは、難行苦行を成し遂げた修行僧でもなく、教養豊かな学僧でもなく、市井の職人であった。この点は、非常に興味深い。
しかしこの議論の中で、松岡氏はスティーブ・ジョブズの名を挙げてきた。スティーブ・ジョブズが「ZEN」から影響を受けたことは確かであろう。しかし、彼は、自社工場をもたぬという生産方式によって、アメリカから製造業や職人を激減させた張本人でもある。また、社員たちを追い込むことによって成果を引き出すことでも有名だが、これなどブラック企業のメンタリティに通じるものがある。事実、ジョブズは、非人間的経営手法が祟って、創業者であるにもかかわらずアップル社から放逐されてしまうのだ。11年後に返り咲くが、これが果たして良かったのかどうかは疑問である。成功したからと言って、人格破綻者を英雄視するのは、モラル上好ましくない影響を与えると思われるからだ。短命に終わったのも、きっと自業自得であろう。効率主義、金儲け主義にひた走ったという点でジョブズは、妙好人とは正反対の人物だったのではないか。
大拙の仏教観は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を彷彿とさせる。明治期に日本が、他のアジア諸国に比していち早く近代化をなし得た精神的基盤について考察する上でも、示唆に富むディスカッションであった。
もう一つ紹介したい番組は、同じくEテレの「課外授業ようこそ先輩」新春スペシャルで、今回はチームラボ代表の猪子寿之氏が登場した。この番組は、毎回著名人が自分の母校を訪れ、授業を行うというものである。徳島出身の猪子氏は、母校の徳島市立内町小学校を訪問した。
まず初っ端から猪子氏は、生徒たちに画用紙に魚の絵を描かせ、それをスキャンして、水族館の映像の中に落とし込み、リアルな魚と一体となって泳がせる映像を流して見せ、生徒たちを魅了した。
さらに、自分が目指しているのは、「世界を変えること」、「世の中を一歩でも前進させることだ」と語り、その一歩としての「学校を変えること」について考えさせた。番組では、この宿題に対して、生徒たちが頭を悩ませながら、討論していく様が描き出されている。結局、「プール」「図書館」「ベランダ」「体育館」を変えることに決まり、猪子氏と具体的にどのように変えるかについて話し合った。そして、その結果は、すべてライトアップだったのである。もちろんこれはゲストである猪子氏及びチームラボによって技術的支援が可能な方法だったのだが、それにしても、「世界を変えること」の意味が照明というのには、いささか違和感を覚えた。チェ・ゲバラの信奉者からすれば、噴飯ものであろう。しかしこれは、デジタル世代の思考パターンを読み解く上で、興味深いエピソードでもある。
たかが照明に対して、「世界を変えること」などという大仰な言葉を用いるのは、裏を返せば、今日革命や変革はこのような文脈でしか語れなくなっていることの証左ではないのか。特に猪子氏のように元気のいい若者ほど、こういった言葉を使いたがるものだが、もし彼が40年前に生まれていたら、きっと文字通り革命を目指していたことであろう。
また、猪子氏は、これからはほとんどの職種において創造性が重要となって来ると語っていた。しかし、猪子氏らの携わる片仮名表記の仕事に、どれだけの一般性があるというのだろうか。つまり、この手のクリエイティブな職種によって、どれだけ雇用が確保されるかということである。
先に鈴木大拙の『日本的霊性』が理想とする仏教者像・妙好人は職人だという話をしたが、職人に求められるのは「創造性」というよりは、「工夫」である。すなわち、万のルーティンワークの中に一の「工夫」を付け加えることこそが職人の腕である。そして、この手の「工夫」が集積された時には、膨大なクリエーションとなるのである。経済学的に言えば、創造性至上主義は格差を助長させるが、物作りは富の再配分に貢献するということである。この意味でも、「妙好人」(=職人)と「クリエーター」(その代表としてのスティーブ・ジョブズ)は、けして交わらないように思えるのだ。
さらに「莫妄想」(イリュージョンを排せ)も、現代社会への警鐘として新たな示唆を与えているような気がする。それは、若者の脳に浸潤しだした「ゲーム」というイリュージョンによってである。
ゲームデザイナーは、職人に近い部分もあるが、そのユーザー、特にゲーム中毒に陥っている者たちは、まさにこの妄想の弊害をもろに受けているのではないか。ファンタジーに逃げることがすべていけないわけではない。しかし、過剰なイリュージョンの被膜に覆われている者は、直接的な体験が失われてしまっているのだ。そして、これはゲームだけではなく、金融のネット取引についても言えるのだ。
猪子氏は、打ち合わせの場面で、これからはそろばんはおろか電卓も要らないと息巻いていたが、要は、エクセルがあれば間に合うということだそうだ。しかし、創造性を養う以前に、手先を使う筆算やそろばんが、人間の発達にとって不可欠だと言うのが筆者の考えである。韓国でもタブレット端末を活用したICT教育が先進的に行われたが、結局失敗に終わったと報告されている。それは、直接的体験を軽視したことへの、当然の報いなのだ。
一方、猪子氏は、年末の討論番組「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」の中で、突然、「若者の生命力は落ちている。生命力の低下は日本の将来にとって不安要因だ」と言いだし、周囲を唖然とさせていた。しかしこの発言の中から、猪子氏の抱えている矛盾が垣間見えるような気がする。まだ若いのだから、持論に固執せず、新たな角度からITと教育の関係についてさらに考え続けてもらいたい。