ノーマライゼーションについて
2008-01-25
成年後見
一昨年、私は成年後見基礎研修を受講した。その中で、成年後見制度の背景にある理念として、①自己決定の尊重、②残存能力の活用、③ノーマライゼーション、が挙げられていることを知り、感慨深い思いに駆られた。これらの言葉にはどれも懐かしい響きがあり、 とりわけ「ノーマライゼーション」には深い愛着があった。
私は、20年近く障害児教育・福祉分野の出版社に勤め、行政書士の資格取得後、第二の人生に転進した。この会社では、1980年代初め、『ノーマリゼーション』という本を刊行しており、書名が「ノーマライ」でなく「ノーマリ」と表記されていることからも、この言葉がまだ人口に膾炙していなかったことがうかがえる。1981年の国際障害者年を契機に、この言葉は徐々に浸透していく。
ノーマライゼーションの思想は、1950年代デンマークのバンク・ミケルセンによって提唱され、スウェーデンのベンクト・ニルエによって広められ、前述の『ノーマリゼーション』の著者、アメリカのウルフェンスバーガーによって集大成されたと言われている。また、ウィキペディア(ユーザーの集合知によって編纂されているインターネット上の百科事典)によれば、ノーマライゼーションの原理の具体的な表現型として 「ADA(障害をもつアメリカ人法)」が挙げられている。私の編集者生活の中で、最も思い出深い仕事が、『ADA(障害をもつアメリカ人法)の衝撃』(八代英太・冨安芳和編)だったのである。
北欧に端を発したノーマライゼーションが北米で完成されたことには重要な意義がある。すなわち、ウルフェンスバーガーによってこの思想は、素朴な理念の表明から膨大な具体的行動目標へと発展を遂げたからである。これは、アメリカ・プラグマティズムの面目躍如たるところであろうが、同時に、阿部謹也が『西洋中世の罪と罰』で描いた、人間のあらゆる行動を天国に至るためにという観点から評価する、伝統的世界観が見え隠れしないこともない。
わが国でもノーマライゼーションは普及したが、北米での発展型が受容されたかと言えば、けしてそうではない。端的な例を挙げよう。
私が大学生だった1970年代後半、障害福祉分野を二分する大論争があった。それは、養護学校義務化問題である。推進派は、未就学児をなくし発達を保障するため義務化が必要であると説き、反対派は、隔離教育によって差別が助長されると訴えた。当時、障害者施設に行くと、両派の職員が反目し合い、緊迫した空気が漂っていたものだった。結局、1979年養護学校義務化は実現するが、問題はその後だ。先ほど述べたように、1980年代初め頃から、ノーマライゼーションが徐々に知られるようになってくるが、この時、対立していた両派が、共にこの思想に飛びつき、称揚しだしたのだ。私は、このことに対して強い違和感を覚えていた。すなわち、日本的文脈において、ノーマライゼーションは、養護学校義務化というきわめて具体的な問題に対して、白黒はっきりさせることができなかったからである。
大熊由紀子氏(元朝日新聞論説委員)によれば、ノーマライゼーションとは「普通になる」ということである。裏を返せば、障害をもつ人々を取り巻く環境には、アブノーマルな(普通でない)側面が多々あるということに他ならない。先程のADA(障害をもつアメリカ人法)は、障害者差別撤廃の目標となる分野として、①雇用、②建築、③交通、コミュニケーション、の四つを挙げている。わが国では、三〇年前と比較して、交通アクセスの面では飛躍的に向上したが、その他の分野では果たしてどうだろうか。
しかし、あの頃に比べると、福祉という言葉がずいぶんビッグワードになったような気がする。それは、彼らを取り巻く環境がノーマライズされたからというよりは、介護保険制度によりこの分野に金が落ちるようになり、介護ビジネスが巨大産業化したからではなかろうか。
ノーマライゼーションを単なる美辞麗句に終らさぬよう、関係者の今後の努力が望まれる一方、我々行政書士もその一翼を担っていかなければならぬと、切に思う。