「DEATH NOTE」はくだらない
2008-02-25
成年後見
先日、映画「DEATH NOTE」の前編・後編を、テレビで見た。まだ、見たことのない人のために、ごく簡単なあらすじだけを紹介しておこう。
高校生の夜神月(やがみらいと)は、ある日奇妙な黒いノートを拾う。それは、名前を書き込むと書かれた者が死ぬという、死神・リュークが落としたデスノートだった。月は、犯罪者が存在しない理想の世の中を作るため、犯罪者の名前を次々とノートに書き込んでいく。やがて、殺し屋(=Killer) の意味から、彼は「キラ(KIRA)」と呼ばれるようになり、多くの者たちが彼の正義感に共鳴し、崇拝するようになる。一方、事態を重く見たICPO(インターポール)は、謎の天才探偵L(エル)に依頼し、この事件解決のために動き出す。そして、キラとLの宿命の対決が始まる。
ここではこの程度の紹介で十分かと思われるので、もっと知りたい方は本編をご覧頂きたい。
「DEATH NOTE」では、夜神月も天才的な頭脳持ち主という設定になっており、探偵Lとキラこと月の頭脳を駆使した対決が物語の中心に据えられていく。しかし、夜神月がノートに書き込む犯罪者というのは、マスコミ発表に基づいて選ばれている。その中には冤罪事件もあるだろうし、実際に犯した罪に比べて重い判決を受けているケースもあるだろう。だが、そういうことは一切考慮されず、警察や裁判所の発表をただ鵜呑みにしているというのは、天才にしては、あまりに乱暴、かつ幼稚とは言えないだろうか。要するに、キラのやっていることは、単に刑罰を重くしているにすぎないのだ。
しかし、問題はこのように単純なストーリー設定の作品が、何故多くの人々の心を捉えたか、という点であり、その社会的背景にこそ、私は興味がそそられる。
これについて私は、思い当たらないふしがないわけではない。すなわち、多くの人々が、現在の刑罰に対して、手ぬるいという印象をもっているのではないか、ということである。
例えば、わが国では、加害者の人権が重んじられる一方、被害者は十分な支援が受けられず、犯罪被害者の感情は軽視されている、ということが長い間言われ続けてきた。特に被害者家族の場合、刑事裁判にも参加できず、損害賠償も限定的にしか受けられず、被害者のために使われる予算は加害者のそれに比べ比較にならないほど微々たるものである。そのことに注目されるようになったのはつい最近のことであり、「犯罪被害者基本法」が成立したのが、平成16年のことである。
刑罰を一律的に重くすればよいという発想の裏には、このように加害者利益と被害者利益の不均衡と、そのことに対する大衆の苛立ちが見え隠れするのではないか。もっと平たく言えば、このままでは被害者はやられ損・殺され損であり、バランスを取るためには、加害者により過酷な運命を背負わせねばならぬ、という原始的感情の噴出に他ならない。
この感情については、もっと大きな観点から検討を加えることができる。
評論家の呉智英は、穂積陳重の「復讐と法律」(岩波文庫)から引用し、蜂に攻撃を加えるとその蜂は攻撃した者を追いかけてくることから、復讐の起源は動物的本能にまで遡ることができると指摘している。また、バビロニアのハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」といった復讐法は、前近代には普遍的に存在した慣習法であり、今でもある部族社会では、ジープで人を轢くと、原住民がよってたかって轢いた者を押さえ込み、被害者が怪我した場所と同じ部位にタイヤをのせるという風習が残っている、と述べている。
呉智英は、近代社会は、このような人類の根源的欲求である復讐心を否定し、公的制裁へと転換せしめたが、まだこの制度は十分に機能しておらず、そのための大衆の欲求不満が澱のように溜っている、といった趣旨のことを講演で述べている。そして、その解決策として、封建主義者を自称する彼は、「仇討ち制を復活すべし」と、冗談とも本気ともつかぬ口吻で語っていた。
さらに、今日の社会的状況が、この作品に共感する者を増やしている、とは言えないだろうか。モラルハザードやアノミーを指摘する識者もいるが、私は、不定形で無方向的な破壊衝動が蔓延し、それがすでにオーバーフロー現象を起こしているのではないか、と感じている。都会では、足早に行く人々は、譲り合いの精神を忘れ、肩と肩とがぶつかり合っただけで一触即発になりかねない光景がしばしば見受けられる。
閉塞した社会にあっては、破壊本能を満たすことがカタルシスを得るための唯一の手段であり、破壊の対象はなんでもいい。ゆえに、犯罪者をターゲットにすることが、欲求不満の人間にとって一番手っ取り早い。なぜなら、彼らに破壊衝動のはけ口を求めたとしても、その行為には大義名分があるので、免罪されるからだ。このような狂気の土壌が、すでに出来上がりつつあるのかもしれない。そしてこれは、差別のそれときわめて近似している。
もちろんこれらは他人事で言っているつもりはなく、私自身の中にも同様の感情が発見される。
しかし、私の意識の中には、キラとは明らかに異なる部分もある。すなわちそれは、もし自分がそのような超能力を獲得したら、警察発表を鵜呑みにするというような、馬鹿げた真似だけは絶対にしない、ということである。そのような能力は、法の網にかからない領域で暗躍している連中に用いてこそ正当化される、と考えるゆえだ。
例えばそれは、巨大権力そのものが犯した犯罪である。最近は、検察や警察の犯罪がときおり取り沙汰されるが、これらの機関はマスコミにとっては、貴重な情報源であるがゆえに、徹底追及されることはけしてない。テレビや新聞でこの手のニュースを見る度、いつも切歯扼腕する思いを味わわされる。
もう一つは、小悪党の犯罪である。彼らはアメーバのように、法の隙間をかいくぐって、尻尾をつかまれることは滅多にない。しかし、これらの中には、看過できぬほど悪質なものが結構あるのだ。
成年後見が脚光を浴びるきっかけとなった事件に、埼玉県富士見市の認知症姉妹に対するリフォーム詐欺がある。80歳と78歳の認知症姉妹のもとに、16社もの悪質リフォーム業者が訪れ、家の補強金具や床下の換気扇など、約3600万円の不要な工事をさせられた。その際、例えば、床下に換気扇を設置しないと家の土台が腐ってしまうなどという、でたらめ話をもちかけられ、判断力の衰えた姉妹を食い物にしていた。そして、3000万円近くあった貯金をすべて使い果たし、さらに土地建物を担保に借金したため、自宅を競売にかけられそうになったが、これだけは富士見市がなんとか中止させた。結局、富士見市の申立てによって成年後見が開始され、その後の被害は食い止められた。
今でも、この姉妹は、市の職員が訪ねて行くと、「今度はいくら払ったらいいんですか?」と尋ねるという。
人間の悪鬼のような一面を覗かせられる事件であるが、私が最も許せないと感じるのは、その結末についてである。これだけマスコミで騒がれ、警察も関与したにもかかわらず、結局、戻ってきた金はごく一部にすぎず、しかも詐欺を働いた連中は、誰一人罰せられなく、今ものうのうと暮らしているというのである。
これを聞き、悪事を働いたら連中と、それに対して何の制裁も加えられない社会の仕組み対して、憤りがこみ上げてきた。これだけの犯罪を犯しても何の刑罰もないとすれば、彼らの一部はまた同じ事を繰り返すに違いない。いわばノーリスクで金儲けができるわけだから、これを繰り返すことは、ある意味経済合理性にかなっているのである。
富士見市のリフォーム詐欺事件は、私にとり、成年後見の必要性を訴える事件というよりは、法律や制度の限界というものを思い知らされる事件であった。
そしてその時、ふと思わず足下を探してしまったのである。一冊の古ぼけた黒いノートが落ちていないかと……。