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信長嫌い②

2010-06-27
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 先日のNHKの歴史秘話ヒストリア(謎の忍者軍団 知られざる“忍びの里”)で、信長によるジェノサイド(大量虐殺)の記憶が、今も生々しく語り継がれている町が紹介された。

1581年の天正伊賀の乱で、信長は、伊賀に対して6万の大軍を差し向けた。迎え撃つ伊賀勢は約九千。圧倒的な軍勢で攻め込み、神社仏閣を焼き払い、伊賀は大打撃を受けた。伊賀忍者の首領、百地三太夫らは柏原城に立てこもったが、信長は忍者を恐れていたせいか、和議を持ちかける。結局、百地三太夫らは紀州へ逃れることとなる。

同番組では、その百地三太夫の末裔と思われる百地氏が、天正伊賀の乱にまつわる忌まわしい記憶について語ってくれた。百地家では、今も、「ち」は血に通じるということで忌み嫌われ、そのため百地の読みも「ももぢ」ではなく「ももじ」なのだという。また、信長に対する反感は百地家だけではなく、地元の人々の間にもいまだに根強く残っているという。

また、百地氏は、無残に頭の砕かれた地蔵を指し、これも信長によって破壊されたものだと語っていた。

ちなみ、信長によって破壊された仏像は伊賀だけではなく、至るところにある。以前関西を旅したとき、このような仏像を私はいくつも見ている。関東にも、破壊された仏像はあるが、それは明治期の廃仏毀釈によるものである。

歴史上の人物を評価する際、ジェノサイドが見過ごされてよいはずがない。信長は、伊賀以外でもたくさんの虐殺を行ってきた。叡山焼き打ちなどは当時でも常軌を逸した行動であったし、長島一向一揆では、2万もの男女を焼き殺している。秀吉が調略を用い戦を避けたことと比べると、信長の暴虐ぶりはいっそう際立つ。「鳴くなら殺してしまえホトトギス」とあるように、稀有の殺人鬼だったのである。



ところで、前回「信長嫌い」で、信長の成果主義について触れた。このことを裏付ける本が見つかったので紹介したい。それは、

谷口克広「信長と消えた家臣たち」(中公新書)

である。

柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興

これらの武将の名はよく知られているが、彼らは、信長の家臣団の中でも勝ち組みであった。

一方、一時は有力家臣でありながら、その後、追放されたり粛清されたりして、消え去っていった武将たちもいる。信長は、他の戦国大名と比べて、追放や粛清が異常に多かったと、同著では指摘している。

追放された家臣の中で比較的歴史に名をとどめているのは、林秀貞(通勝)と佐久間信盛であろう。林は織田家一番家老の出で、1556年、信長と弟の信行の家督争いの際信行側についたが、その後許され降格されることもなかった。しかし、その後24年も経ってから、このことが謀反の罪に問われ、追放されてしまうのである。柴田勝家も信行擁立に加わっていたが、柴田に関してはお咎めなしであった。

佐久間信盛も、織田家重臣の家に生まれ、家督争いの時は信長に味方し、その功績により筆頭家臣となる。その後も、主だった戦いでは常に活躍し、「織田株式会社の副社長」と言われる地位にいつづけた。

ところが、1580年8月、突然信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、高野山に追放されてしまうのである。高野山に落ちるときはつき従う者がわずか二、三名だったという。「信長公記」でも佐久間信盛の評価は高く、19ヶ条の折檻状の内容もほとんどが難くせに近いものであった。この中で、信長は「本願寺攻めに5年間もかかり、功績がない」などと非難しているが全くの言いがかりであろう。佐久間信盛は、織田家中屈指の勇将だったのである。

また、同書では、中川重政(柴田勝家と争い、改易)、塙直政(本願寺との戦いで討死。敗戦に怒った信長により所領を没収)、簗田広正(加賀の平定に失敗し失脚)、神部具盛(幽閉後失脚)、関盛信(幽閉)、津田一安(織田信雄により誅殺)、堀秀村(追放)、磯野員昌(追放)等のことが紹介されている。

この中でも、中川重政、塙直政、簗田広正、津田一安などは、柴田勝家らとも同格の有力武将であったが、信長に抹殺されたことによって、歴史から消えていくこととなる。

信長は合理主義者であり、有能な家臣を家柄に関係なく取り立て、今でいう成果主義をいち早く取り入れたなどと言われている。しかし、これらの事例を眺めると、合理主義とはかけ離れたものであったことがうかがわれる。ほとんど気まぐれに、長年仕えしかも功績のあった者をいとも簡単に使い捨てにした。これでは、忠義心など生まれてくるはずもないのである。正当な理由もなく追放したり粛清したりすれば、恐怖が支配するだけで、心から従う者など誰一人いなくなってしまうだろう。

そもそも成果主義とは、個人主義が成立した流動性のある社会においてこそ効果を発揮しうる。戦国武将の場合、家を重視するし、スカウトされた場合を除けば、他の大名の家来となっても重く用いられる可能性は少ない。だから、主君が末代に至るまで所領支配を保障する本領安堵という考え方の方が、武士社会においては合理的なのだ。

また、評価の基準は公正で客観的でなければならない。信長のように恣意的かつ感情的なやり方では、かえって逆効果であろう。これでは、いつ自分が言いがかりをつけられないともかぎらず、明日は我が身という疑心暗鬼が募るばかりである。そのため、それならいっそのこと、こちらの方から先に裏切ってやろうと考える者が出てきても不思議はない。

現に、謀反者が次々と現れ、信長はそれに苦しめられることとなる。天下の趨勢が定まった後も、松永久秀、別所長治、荒木村重による謀反が起こる。本能寺の変もこのような一連の動きの一つと見るべきであろう。

谷口は、明智光秀の謀反を起こるべくして起こったものだと指摘する。当時光秀は67歳だったとする説が有力だが、この説をとれば、光秀は信長や秀吉よりかなり年長だったことになる。さらに嫡男・光慶は13歳とまだ幼く、この年齢要因が謀反の動機の一つとなる。すなわち、光秀は恐らく信長より長く生きることはなく、信長の性格からすれば、自分の死後明智家を取りつぶす可能性がきわめて高い。そこで、乾坤一擲の賭けに出たというのだ。

いずれにせよ理不尽な成果主義が、信長にとって命とりとなったことだけは間違いない。



江戸時代、信長には全く人気がなかった。それは、庶民だけでなく、武士や学者の間においても同様である。例えば、新井白石などは、

「すべてこの人天性残忍にして、詐力をもって志を得られき。されば、その終わりを善くせられざりしこと、自ら取れる所なり。不幸にあらず」

と述べている。

つまり、本能寺の変は自業自得だったというわけである。

私は、この言葉に100%共感する。今まで、今日の信長評価に対してずっと違和感を覚えていたが、私の信長像は、江戸の人々からすればごく当たり前のものだったということになる。

信長の評価が急速に高まったのは、明治以降のことであり、それは天皇家を保護したことによるという。しかし、今日の評価はこれともまた異なり、創造的破壊のシンボルといったイメージが強いのではなかろうか。そしてそれは、多少の理不尽があっても時代を先に押し進めるためには仕方がないといった見方とも重なる。

そして、このような信長観は、経営者の独善・独裁に免罪符を与えているような気がする。経営者、特に中小企業の社長の中に、いかに信長気取りの輩が多いことか。信長のように、突然過去の失敗をあげつらねたり、難癖をつけて解雇するなどという例も枚挙に遑がない。

信長賛美の風潮には、経営者のわがままやパワーハラスメントを助長するといった副作用があり、さらにそれは、社会のモラルにも、悪しき影響を与えているのではないか。

NHK大河ドラマで、信長を批判的に扱った作品は一本もないが、信長の理不尽な言動や、虐殺に手を染めていたことは十分に読み取れる。それでも信長を英雄視するということは、これらの行動を許してしまっているということに他ならない。

しかし、江戸時代の人々はそうではなかった。すなわち、信長の残虐行為をけして許そうとしなかったのである。

当時の識者の信長評は、次のようなものである。

「孝行の道厚からず、ことに無礼におわせしによって、果たして冥加なく早く過させ給なるべし」(小瀬甫庵「信長記」)

「敵国の兵といえば、皆討ちも亡ばさでは叶わざるようにおわしまし」(小瀬甫庵「信長記」)

「信長猜忌、頼朝より勝れり。その残暴、頼朝のなさざる所なり」(太田錦城「梧窓漫筆」)

「局量の狭少なるは、遥かに諸将に劣れり」(太田錦城「梧窓漫筆」)

今こそ、江戸の人々の良識に、見習うべきではなかろうか。


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