花田春兆氏を偲ぶ
2017-08-04
その他
5月16日、花田春兆氏が永眠された。91歳というから、まさしく大往生と言ってよいであろう。戦後の障害者福祉史に巨大な足跡を残した偉人の死に対して、巨星墜つといった感慨を禁じ得ない。一方、マスコミの取り上げ方がそれほど大きくなかったことについては、大いに不満が残った。
花田春兆氏のことをご存知ない方のために一言説明しておこう。花田氏は、大正14年に生まれるが、その後脳性まひの診断を受け、言語障害や運動障害が残ることが明らかになった。9歳の時、東京市立光明学校(現都立光明特別支援学校)に入学し、小学課程を卒業後、研究科に進み、この時、俳句と出会うこととなる。研究科卒業後は在宅で過ごすが、昭和22年、身体障害による初の同人誌『しののめ』を創刊し、当事者による表現活動の場を提供していくこととなる。「しののめ」は文学活動だけではなく、障害者運動にも積極的に関与し、SSKO(身体障害者団体定期刊行物協会)の設立もその成果の一端として挙げられる。
花田氏は、若い頃より、中村草田男に師事し、萬緑新人賞、角川俳句賞、俳人協会全国大会賞、萬緑賞を受賞し、輝かしい実績を残している。しかし、筆者には俳句の素養がなく、氏の作品について十分に語るだけの言葉を持ち合わせていないため、他の仕事である小説や随筆などについて触れてゆきたい。これらの分野でも、花田氏は膨大な作品群を残している。例えばそれは、『鬼気の人―富田木歩の生涯』、『心耳の譜―村上鬼城の作品と生涯』、『幽鬼の精―上田秋成の作品と生涯』であるが、これらに共通するのは、氏が題材として選んだのが障害者の偉人だった、という点である。すなわち、障害者自身による障害者の伝記作家というスタンスであり、これは、氏が「障害者作家」を自認する所以でもあろう。中でも燦然とした光芒を放つのは『殿上の杖―明石検校の生涯』である、と筆者は思う。これは、南北朝の激動の時代、足利尊氏の従兄弟でもある盲目の琵琶法師・明石覚一が平家琵琶の集大成である覚一本を確立し、一方、我が国の福祉の原点とも言える盲人の互助組織「座」の設立に尽力した経緯が詳細に描かれている。文学・障害者運動の両面で活躍した明石覚一の生き様は、氏のそれにそのまま重なってくる。もう一つ、明石覚一は足利尊氏の縁者だが、花田氏もまた大蔵官僚や海軍の高級将校らを親類に持ち、いわばエリート障害者といった側面があることは否めない。しかし、明石覚一にせよ花田春兆氏にせよ、単なる出自が良いだけで、到底こんな活躍ができるわけではないのである。ちなみに、筆者の知人で障害当事者のS氏も花田氏の心酔者の一人だが、花田氏がある雑誌の中でS氏のことを「単なるお坊ちゃん障害者ではない」と評したことが、彼をいたく感激させたことがある。この言葉はそのまま、花田氏自身の自負であったのではないかと、筆者は推理している。
『殿上の杖』は、緻密な時代考証を踏まえた上での、恋あり、スリルありの上質なエンターテインメント作品として成立している。筆者は、かねがねこの作品はNHKの大河ドラマの原作としても十分通用するのはないかと思っていたのだが、つい先日風の便りに、氏自身もそのような思いを抱いていたという話を聞いた。この作品は、氏の大衆作家としての筆力を十分に感じさせる出来映えになっているが、氏ほどの才能があれば、そのような作品を量産し、流行作家としての地位を確立することも可能だったのではないか。氏が自らを「障害者作家」として規定していたのは、その立場を有利に働かせるためにではなく、むしら自らの志を全うするために科した枷だったのではないか、と思えてくるのだ。
いずれにせよ、花田氏は91年間の人生を十分に生き抜き、それは、氏にとっても満足の行くものであったに違いない。棺桶の窓から覗くその死に顔は、まるで仏様のようであった。