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STAP細胞問題に見るコンプライアンス亡国の影

2014-06-21
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STAP細胞論文の改ざんやねつ造問題に関する理化学研究所の調査委員会の委員長石井俊輔氏(理研上席研究員)に、自らの論文にも画像の切り貼りがあったことが指摘され、辞任した。小保方氏の論文を調査する側のトップが、同じことをやっていたというのだからあきれてものが言えない。同種の嫌疑は石井氏に止まらず、この分野の最高権威者でありノーベル賞受賞者でもある山中伸弥氏にまで及ぼうとしている。(何とか切り抜けたようではあるが……)ここで素朴に思ってしまうのは、今回、不正や捏造として取り沙汰されている事柄は、研究者の間ではよくある話なのではないか、ということである。我々自身を振り返ってみても、建前や形式論的には悪いとはわかっていてもついやってしまうということが、一つや二つはあるものである。今回の石井氏のケースは、小さな悪事を摘発しようとして、より細かな投網を用意した結果、自分までひっかかってしまったような話であり、自業自得とは言え、みっともない限りである。
ところで、この話で思い出すのは、2004年に騒動となった年金未納問題である。小泉内閣の閣僚のうち7人に未納の事実が発覚し、当時の官房長官、福田康夫氏まで辞職に追い込まれた。さらに、批判の急先鋒で、「未納三兄弟」と言って自民党代議士を追及していた菅直人自身にも未納疑惑が持ち上がったため、民主党代表を辞することとなり、その後お遍路さんをしたことが話題となった。菅氏のケースなど、今回の石井氏とよく似ている。そもそも年金は複雑な制度であり、時期によって内容がコロコロ変わるため、未納になりやすいのである。筆者なども、学生の頃は任意制だったため何の通知もなく国民年金など納めていなかった。そのため、20歳から就職までの数年間が合算対象期間(いわゆる、カラ期間)となり、この期間は年金額には反映されない。しかし、これは60歳になってから任意加入被保険者になれば解消されるわけで、何の不都合も生じない。(もし、任意加入被保険者にならなければ、その分年金の額が減るだけの話である)
STAP細胞の捏造問題と年金未納問題を同じレベルで論じてよいかわからぬが、形式的な誤りが、あたかも重大事であるかのように誤解され、それが増幅されていくプロセスという意味では、共通のメカニズムが働いているような気がする。また、うら若き女性研究者をめぐる問題であっただけに、魔女狩りをも想起させる。魔女狩りというと遥か過去の中世の出来事と思う向きもあるかもしれないが、アメリカのセイラム村における魔女狩りは、17世紀も末になってから起きている。降霊会で神憑り状態になったある少女の言葉に端を発し、約200名の者が悪魔と契約を結んだ魔女として告発を受け、そのうちの約1割が処刑された。そして、この魔女裁判において特徴的なのは、告発した者の多くは、同じ村に住む顔見知りの者たちだったということである。若干不思議な気もするが、村全体が集団ヒステリーのような状態に陥った時、このようなことが起こるらしい。普段は仲の良かった親戚や近隣の者たちを悪魔と見なしてしまう心理が、我々の中に潜んでいるのだ。日本人だって、けして他人事ではない。敗戦後、進駐軍が来た時、ついこの間まで鬼畜米英だったはずのマッカーサーを大歓迎する一方、大した罪も犯していないB級戦犯の人々をGHQに密告し巣鴨に送り込んだのだから。
STAP細胞問題でも、疑惑情報の発信源は、同業者かそれに近い人々、つまり同じ科学者村の人たちが多く、それをネタ元にしているマスコミが騒ぎをより拡大していったように見受けられる。「新報道2001」で、この問題についてコメントを求められた中谷元議員が「ガリレオの『それでも地球は回っている』という言葉を思い出しますね」などと述べていたが、政治家にこのようなことを言われるようではおしまいではないか。
研究者と言っても、分野が異なれば大分受け止め方も異なるようで、経済学者の高橋洋一氏などは、ラジオで次のようにコメントしている。すなわち、誤りがある論文など数限りなくあって、それが、学界誌上で論争され、淘汰されていくというのが研究の検証プロセスであって、今回のように理研がわざわざ介入する必要性など全くない。そして、このような検証は数カ月やそこらの短期間で拙速に行われるべきではなく、10年や20年といった長いタイムスパンの中でなされるものなのだ。だから、ノーベル賞などは、20代で挙げた業績に関して老齢期になってから受賞されることが多いのだ。つまり、長い風雪に耐えて生き残った研究こそが、真に評価に値すると言うことだ。誠にもって明晰な見解であり、科学者の中に、これに異を唱える者がいるということの方が信じられない。
ちなみに、風雪に耐えることの意味は、単に発見された事実が追試によって確認されるということだけではなく、社会環境の変化をも含んでいる。例えば、DDTなどは、殺虫剤としての効能が認められ、1948年のノーベル医学生理学賞に輝いた。しかし、その後、DDTは自然界で分解されにくいため体内に取り込まれ、環境ホルモンとして作用することが疑われだした。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」では、環境汚染物質の筆頭として、このDDTが挙げられている。
もしSTAP細胞が事実だとしたら、秦の始皇帝以来の人類究極の願いに近づくことができるのだから、もう少し鷹揚に構え、長いタイムスパンで見るべきではなかろうか。検証に千年かかったっていいくらいである。拙速に結論を出すことは、厳に慎むべきであろう。

しかし、科学者村の人々は、STAP細胞が存在するかという問題ではなく、科学者としての倫理の問題なのだと言いはることだろう。これについて少し考えてみたい。
倫理の問題という割には、「ねつ造」とか「故意」とか、法律を連想させる言葉がマスコミに氾濫しているが、これらは理研サイドから発信されたものである。まず、今回の問題がもし法律に抵触する可能性があるとすれば、それは著作権法か詐欺罪であろう。前者については、武田邦彦氏が、主にネット上で、小保方論文は著作権法には全く抵触しない、ということをさかん述べている。武田氏によれば、著作権法が保護の対象としているのは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」であって、今回コピペとして問題視されている事柄は、すべて事実であり、同法の保護の対象外である。それを引用文献とか参考文献として掲載することは、単にマナーとか村の掟といった程度の問題でありそれを超えるものではない。武田氏は自身も工学博士であり論文審査にも携わったことがあるが、今回指摘されている問題が、科学者すべてが守らなければならぬ普遍的ルールなどではけしてないと断言している。筆者は、以前環境問題をめぐる武田氏の言説に疑問を抱いていたが1)2)、今回の発言については全く共鳴する。
もう一つの詐欺罪についても一言触れておこう。詐欺罪は、民事でも刑事でも、財物の取得が要件となっており、単に嘘をついたり、騙したりするだけでは詐欺罪は成立しない。もし成立する見込みがあれば、これだけ世間を騒がしているのだから、すでに検察が動いていてもおかしくないはずである。要するに、STAP細胞問題は、法的違法性にはかすりもしないのである。しかるに、「ねつ造」とか「故意」とか「不正行為」とか、違法性を連想させる言葉が飛び交っているというのは、どういうことだろうか。また、理研は「故意を認定する」などと軽々に言っているが、「故意」を認定するのは司法にのみ許されているはずである。これによって、小保方氏は著しく社会的評価を引き下げられているのだから、むしろ理研の方が名誉棄損等の不法行為に抵触している可能性が高い。

ところで、科学者の倫理、武田氏の言うところの「村の掟」についてだが、村の掟なら、それが嫌なら他の村に引っ越せば良いだけのはずである。しかし、それがあたかもすべての科学者にとっての絶対的規範であるかのような論調で、マスコミが煽りたてている。そして、このように違法でもないのに、あたかもそれが法律と同じであるかのように機能する領域を増やしていく傾向は、何も科学の分野に限ったことではない。これに関して、筆者はある言葉を思い出すのだ。それは、「コンプライアンス」である。
コンプライアンスというと、多くの日本人は、何の疑いもなく正しいものとして受け入れる傾向があるようだが、果たして本当にそうだろうか。ちなみに、元検事の郷原信郎氏が、2007年に『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)という著書を著している。「法令遵守」とは、コンプライアンスの訳である。ちなみに、これは明らかに誤訳であろう。原義はともかく、現在流通しているコンプライアンスの意味は、法律そのものを指すものではなく、法律外のモラルの領域をも含んだものになっている。しかも、単に旧来からの個人的道徳というよりも、企業や組織における法律と近接する領域を主な対象としている。そして、これに関して、法律に基づき社内的、対外的なルールを作成することによって、問題の発生を未然に防いだり、事後すみやかに解決することが、コンプライアンスの目的であろうと筆者は理解している。例えば、リコール、個人情報保護や危機管理のためのルールと言ったものが、これに当たるであろう。
そういった意味で、小保方問題の背景には、コンプライアンスの思想が横たわっていると思われるのだ。冒頭で述べた調査委員会なども、コンプライアンス的なものが見え隠れする。
コンプライアンスが有益であることは認めるが、筆者はこの思想が蔓延していくことに対して強い危機感を抱いている。法と道徳の間の境界領域が法律色の強い色で塗り替えられて行くのは、一見良いことのようにも見える。しかし、これが裏目に出てしまうこともあるのだ。
一例を挙げよう。福島原発事故の折り、支援に駆け付けたある障害者団体が、障害者のいる家庭を訪問しようと思い、市役所に行って障害者のいる家族の名簿を閲覧させてほしいと頼んだ。しかし市の担当者から、それは個人情報だから教えられないとあっさり断られてしまったのだ。この時は、市長にかけあって直接承諾を得たにもかかわらず、それでも職員は応じなかったという。3)要するに、ルールが一人歩きし暴走してしまい、個々人の主体的判断に基づく臨機応変な態度が取れなくなってしまったのだ。
個人情報をめぐるこの手の話は、枚挙の遑がない。学校でクラスの電話連絡網を作ろうと思っても、個人情報だから開示できないという例もある。また、筆者自身が体験したケースとして、パソコンの修理を大型電気店に行って頼んだところ、修理の前に、HDのデータを全部消去すると言われた。筆者は情報が漏れてもかまわない旨一筆書くから消去しないでくれと頼んだが、それでも店員は首を縦に振らない。要するに、HDに保存されている個人情報の主から訴えられるリスクがあるからだということらしい。その店員は、「もし故障箇所がキーボードだったとしても、データは全部消去させて頂きます」と得々語っていた。
これでは、個人情報保護法ではなく、個人情報過保護法になってしまうのではないか。しかし、この店員にせよ、市の職員にせよ、けして独断でやっているわけではなく、恐らく内規のようなものがあり、それに従っているのであろう。
倫理学に状況倫理という考え方がある。4)道徳的行為は個別的・具体的な文脈の中でこそ発現されるべきものであるというものだが、コンプライアンスは一律に一般化させていくものなので、個別具体的な状況判断を許さない傾向がある。コンプライアンスが社会に広がって行くに連れて、我々の意識や行動様式もそれに順応し変化していく。その結果、平時には無難に処理できても、非常時における臨機応変な対応ができない人々が増えて行くのではないか。コンプライアンスがもたらす究極の人間の姿は、マニュアル人間であろう。筆者は、これを「リーガルマインド・コントーロール(法的洗脳)」と呼んでいる。リーガルマインド・コントーロールによって汚染された社会は、人情や暖かみのある交流を奪い、平板で味気のないものになっていくであろう。
また、コンプライアンスは、グローバリズムの一翼を担うものだと筆者は理解している。現在のグローバリズムは、産業資本主義(物作り社会)から金融資本主義へと移行しつつある。産業資本主義の場合、商品としての現物が目の前にあるのだから、ルールはさほど重要ではない。しかし、金融資本主義の場合、とりわけデジタル化された社会においては、ビジネスは極限までゲーム化されるため、ルールが重要となっていくのである。コンプライアンスを浸透させていくことの背景には、本格的な金融資本主義社会を到来させるための地ならしがあると思われるのだ。本来幻想に過ぎないルールに、より強い確乎たるリアリティを持たせ、ゲーム社会を完成させてゆくことにこそ、コンプライアンスの真のねらいがあるのだと思う。TPPなどをみても、ルールが国家の命運を握るという時代になりつつあることがわかる。
コンプライアンスといっても、けして悪いことばかりではない。人権問題や差別や偏見をなくすといった点では、コンプライアンスはある程度有効だと思う。例えば、昨年「障害者差別解消法」が成立したが、この法律でキーとなっているのは、「合理的配慮」(Reasonable Accommodation)という概念である。「合理的配慮」とは、企業等が、バリアフリーを実現させていくため、経営が傾くようなことまでしなくてもいいが、ある程度具体的に可能な範囲で社会的障壁の解消に協力せよといったことである。障害者差別解消法は基本法なので罰則はない。しかし、余裕のある大手企業を中心に、障害者が商品やサービスを購入する上で、あるいは雇用の際、障壁を撤廃させるための内規が作成されたり、社員教育が行われたりするであろう。もちろんこれはいいことである。
しかし、グローバリズムにおいて、権利擁護と搾取はコインの裏表の関係にあるのではないだろうか。グローバリズムの真の目的は、非合理的な差別を撤廃させていく一方、合法的な差別(=格差社会)を拡大させ行くことに他ならない。普遍的な価値を目指す以上、正義やモラルに明らかに反することはできない。だから、筆者もグローバリズムによって世界はより良くなると本気で信じていた時代があった。しかし、現実を見渡せばどうであろう。世界中に格差は蔓延し、世の中は以前より悪くなっているとしか思えない。コンプライアンスを全否定するつもりはないが、行きすぎたコンプライアンス、そして人間がリーガルマインド・コントーロールに浸食され主体性を失っていくことには警鐘を鳴らしたい。

話を再び STAP細胞の問題に戻したい。理研が、法律で求められてもいない調査委員会を設立し、小保方氏の過去の研究記録を捜査機関まがいに調べるという一連の行動は、今述べたコンプライアンスの思想と軌を一にする。しかし高橋洋一氏が言うように、時間はかかっても論文で決着がつけられるものなら、むしろそのようなプロセスに任せるべきなのではないか。多少迂遠ではあっても、やがて真実は明らかになるはずである。今回の問題が、STAP細胞の真実性と大きく関わると言うのは、誰もが感じている常識的見解であろう。もし、倫理的問題のみを切り分け、単独に扱うというのなら、理研の発足にまでさかのぼり、研究の大小にかかわらず、全研究者の論文を小保方氏のケースと同様に精査しなければ公平性に欠くのではないか。さらに言えば、コンプライアンス的思考に毒されているから、科学者の倫理が研究方法やプロセスの問題にのみ矮小化されるのであって、本来これは、科学者の社会的責任を意味するものだったはずだ。その中には当然、戦時中理研で行われた原爆製造計画の戦争責任の問題も含まれてくるであろう。現に、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏は、湯川秀樹(当時、理研)の戦争責任についても言及している。この点に関して、理研は何ら総括してこなかったものと思われる。今はほとんど忘れ去られてしまっているが、当時昭和天皇は、理研の日本版マンハッタン計画を七三一部隊と同様に危険視していたのだ。5)
筆者は、何も中・韓のように過去に固執し、問題をすべて暴き立てれば良いと言っているのではない。ただ、自分にとって都合の悪い人物だけをターゲットにし、正義の名の下に断罪するというやり口が気にくわないだけだ。それは、魔女狩りにも通じるものだ。調査委員会の委員長にまで不正が発覚したのだから、全研究者を対象にすれば、新たな不正が次々に明らかにされると思われるが、そのようなことはしないらしい。STAP細胞の存在とは関係なく、あくまで倫理単独の問題だと言うのなら、他の研究も同様に扱うというのが筋ではないか。その辺に、矛盾を感じてならない。
理研は、かつて「科学者たちの自由な楽園」と称されたことがあった。6)(原爆製造計画が行われていた頃の話だ)コンプライアンス思想に毒された今の理研の姿は、その対極にあるものと思えてならないのだ。

1)武田邦彦「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」洋泉社、2007
2)山本弘「“環境問題のウソ"のウソ」 楽工社
3)朝日新聞連載「プロメティウスの罠」
4)小原信 「状況倫理の可能性」中公叢書
5)保阪正康「東条と天皇の時代」 文春文庫 1979
6)宮田親平 「科学者たちの自由な楽園―栄光の理化学研究所 」1983


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