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「太平記」のスピンオフ作品

2020-07-29
その他
NHK大河ドラマ「太平記」(BSプレミアム、日曜日午前6時)の再放送が、意外と好評である。Googleで85%のユーザーがこのテレビ番組を高く評価とあり、また、たくさんの視聴者からの感想も寄せられている。1991年放送と、30年前の作品であるから、初めて見たという人の方が多いのではないか。また、主人公の足利尊氏を演じる真田広之を初め、武田鉄矢(楠木正成)、陣内孝則(佐々木道誉)、片岡鶴太郎(北条高時)、柳葉敏郎、高嶋政伸、沢口靖子、 宮沢りえ、樋口可南子と、ほとんどの登場人物を演じる俳優たちが今なお活躍していることが、この作品の魅力をいっそう高めているような気がする。現在ベテランの域にある彼らの若かりし頃の姿を見るのは、何とも微笑ましいものである。ところで、花田春兆著『殿上の杖-明石覚一の生涯-』(伏流社)は、「太平記」のスピンオフ作品である。大河ドラマの再放送がきっかけとなって、「もう一つの太平記」とも言うべきこの作品がより多くの人々に知ってもらえることを期待したい。


都営地下鉄でスマホを紛失した件

2019-04-03
その他
 3/21(木、祝日)都営地下鉄でスマホを紛失した。本郷三丁目でないことに気づいたが、春日駅で三田線から大江戸線に乗り換えたので、三田線か大江戸線のどちらかで座席に置き忘れたに違いないと確信した。紛失場所がある程度絞れるので、事務所に着くとすぐに都営交通お客様センターに電話をかけた。受付終了の20時近くまで三回かけたが、結局私の落とし物は見つからず、「本日は、祝日ということもあり、遺失物の登録が遅れることもあるので、明日もかけてみてください」と言われた。ちなみ、探してもらう際にこちら側が提供した情報は、スマホかガラ系の携帯かということと、色、そして、通信会社という3点のみであった。こちらの名前も連絡先も聞かれなかったので、少し物足りない気分を味わった。そして、翌日の3/22、最後のチャンスと思い20時近くに、お客様センターに電話したところ、該当するスマホはありません、というにべもない返事が返ってきた。
 2日間、連絡して見つからなかったので、私としてはもはや腹をくくるしかなかった。このスマホは業務上も使っているため、長い間、通話不能の状態にしておくわけにも行かないので、契約している通信会社ソフトバンクに行った。まず、停止の手続きを取り、紛失時の代替え機は用意していないということなので、早急に新規端末を購入しなければならない旨告げられた。新規端末を購入するとなると値も張るので、秋葉原を回った末入手し、数日後には通話を再開させることができた。
 私は、てっきり座席に置き忘れたスマホを誰かが拾い、都営の遺失物係にも交番にも届けず、ちゃっかり自分のものにしてしまったのだろうと思った。使い古しのスマなどどうせ二束三文にしかならないだろうが、たまたま明日の生活にも困っている者に見つかってしまい、換金処分されたに違いない。紛失後、私は何度も自分の携帯番号に電話をかけてみたが、直後には着信音が鳴ったが、その日の夕方には、「電波の届かないところに……」というメッセージがもう流れ出していた。恐らく自分の物にした者が、所有者からの連絡をうるさがり、電源をオフにしているのだろうと推測した。
 通信が再開され、この不愉快な出来事を忘れかけていた頃、ソフトバンクからの通知が届き、そこには、私の紛失したスマホが警視庁の遺失物センターに届けられていることが書かれていた。新しい端末を購入してから戻ってきても意味はないのだが、とりあえず、センターに行くことにした。恐らくスマホを拾い、自分の物にした輩があまり賢くなく、こちらで通話を停止した後、再びどこかに捨てたのであろうと推測した。再拾得者は、善意で交番に届けたのであろうが、いずれにせよ時すでに遅しであり、届出などせずそのまま自分のものにしてもらった方が良かった、という思いが頭の中をよぎった。
 警視庁の遺失物センターに行き、すでに何の役にも立たなくなったスマホを受け取った時に、ついでに「いつ見つかったのですか?」と聞いてみた。すると、驚くべき答えが返ってきた。拾得されたのは私がスマホを落とした当日の3/21であり、しかも拾得場所は都営地下鉄線内だというのである。まさに、私が最初に予想した通りであり、しかも当日中には、都営地下鉄の遺失物の保管場所に収めらいたというのだ。ならば、あの二日間にわたっての、お客様センターとのやりとりは何だったのであろうか。
 事務所に戻ると、お客様センターに電話した。3/21に起きたことの一部始終とその顛末について伝えると、上席に相談すると言っていったん電話を切られた後、折り返しの連絡があり、調査後また電話するという回答があった。多少重く受け止めているという感触があり、少しは溜飲が下がる思いがした。調査後の連絡は翌日あり、私とのやりとりはすべて録音されており、それを確認したとのことだった。紛失したのは三田線だったが、三田線はメトロに接続しているため、3/21中には都営の遺失物係には届かなかった。翌22日にも電話しているが、それについては、遺失物係の者が、通信会社をソフトバンクではなくワイモバイルとして入力してしまったため、お客様センターで案内した者が、マッチングできなかったというのだ。私は忘れていたが、電話の録音に「ワイモバイではないですか?」という案内の者の質問があり、それに対して私は「違います」と答えていたそうだ。向こうにもミスはあったのだが、経過を説明してそれですべておしまい、ということになってしまった。
 私としては、何か釈然としない思いが残った。私は、仕事柄、本人訴訟なら自分でもできる自信があるので、今まで自分の案件に関しては訴訟を提起した経験が何度かある。しかし、今回は、先方にミスはあったとしても、一義的にはなくした自分が悪いので、訴訟に向かないとまず思った。
 釈然としない一番の理由は、スマホという高額商品に対する、都営地下鉄の側の対応・取り扱いの軽さにある。私の端末はアンドロイドだが、iPhoneなら十万を超える機種がざらにあるだろう。傘などとは訳が違うのである。傘を忘れたことは度々あるが、その場合は、買い換えるにしても千円程度ですむので、そもそも遺失物の問い合わせすらしない。しかし携帯電話に関して、そういったものと同列の取り扱いをしていることに対する疑問が強く湧いてきた。また、携帯電話独自の特殊な事情もある。高額な貴金属なら、たとえ一ヶ月先に戻ってきたとしても、落とし主は拾ってくれた人に感謝の気持ちが湧くであろう。しかし、携帯の場合、新しく端末を買ってしまってから戻って来ても、そのような感情は湧かないのである。戻って来た忘れ物は、すでに用をなさず、売却しても二束三文の価値しかない。私の場合、もし同じようなことが起こった時への備えとして、戻って来たスマホを保管することにした。しかし、紛失したこと自体初めてだったので、これが役に立つ可能性は限りなくゼロに近い。
 この釈然としない思いをどこにぶつけたらいいのかとよくよく考えてみると、やはりそれは都営のシステム自体にあるのではないか、と考えざるを得ない。都営の遺失物係は、ソフトバンクのスマホを誤ってワイモバイルとして登録してしまったが、こういうヒューマンエラーは避けられない。我が身を振り返っても、この程度の間違いはしばしば犯しているような気もする。また、お客様センターで電話口に出た女性に対して、ワイモバイル以外は同じ条件のスマホがあったにも関わらず、どうしてもっと調べてくれなかったのかという思いも確かにあるが、こういう場合の対処法はたいていマニュアル化されており、その範囲でしか動けないものである。ならば、こういった担当者たちの行動を規制している、都営の遺失物に関するシステムそのものに欠陥がある、とうことになるのではないか。
 実は、これについては、簡単な解決方法がある。携帯やスマホには、持ち主の電話番号がすべて登録さている。これは、色とか通信会社などよりも、よっぽど確実な情報である。しかもこれをマッチングするには人を介さずにネット上で簡単にできるはずだ。夜中になくしたことに気づいたとしても、すぐにネットで調べられ、見つかれば安心できる。そして、受け渡し時に、本人確認すればきわめて効率的な対処方法となるのではないか。高額で、しかも個人を識別する情報を内蔵しているという携帯電話ならではの特色を活かせば、もっと効率的に紛失による被害を減らせるのではないか。
 携帯がはびこる社会に対して、そもそも私は不快感を感じている。しかし、それをなしで過ごせる時間がどんどん短くなっていることも、またまぎれもない現実なのである。それに対しては、それを踏まえた対策が必要なのである。これが、今回の事例を通して強く感じたことなのである。


書籍案内 『殿上の杖-明石覚一の生涯-』(花田春兆)

2019-02-25
その他
視覚障害者の相互扶助を目的とした「座」の組織は、座頭市でもお馴染みだが、これを創設したのが、本書の主人公・明石覚一である。また、覚一は、平家琵琶の名手であったが、単なる一演奏家には終わらず、バラバラに伝承されていた平家物語の語り本を、「覚一本」として集大成するといった偉業を成し遂げている。彼は超一流の芸術家であったと同時に、足利尊氏との縁故を活かして、先進的な福祉制度をいちはやく日本に取り入れた、天才政治家でもあったのだ。南北朝動乱のさ中、逞しく、かつ誇り高く生き抜いたスーパー障害者の人生を、現代の明石覚一とも言える著者が、渾身の筆致で描く。

問い合わせ先:伏流社 http://fukuryusya.com


「ヒロシマ-世界を変えたあの日」から考える

2017-08-17
その他
今年もまた、8月6日がやってきた。原爆の死没者に対する慰霊・追悼の番組がいくつか放送されたが、私はBSドキュメント「ヒロシマ-世界を変えたあの日」(NHK・イギリス国際共同製作)を見た。この番組では、マンハッタン計画から原爆投下までの動きを時系列にそって解説し、それに日米の軍関係者、及び医師・学者・民間たちのインタビューを加えたものである。その中で、ある日本人が驚くべきエピソードを語りはじめたため、ベッドで半睡状態であったにもかかわらず、思わず飛び起きてしまった。それは、当時陸軍特種情報部に所属していた長谷川良治氏によるものであった。なんと同部は、原爆投下の2ヶ月前から、テニアン島から発せられる不審な電波をキャッチしており、それが恐らく新兵器のための特別訓練だろうと推測していたというのである。そして、その訓練に参加した米軍機を「特種任務機」と名付け、追跡し警戒を続けていた。そして、8月6日未明においても、この特種任務機がテニアン島から出撃したことを把握していた。長谷川氏は、この特種任務機に積まれたのが「普通の爆弾でないことはわかっておりますので」と語った。さらに、「情報はすぐに参謀本部に伝えられた。しかし、広島の司令部には伝えられなかった。理由は、今も明らかになっていない」というナレーションが続く。そして後から、広島に新型爆弾が投下されたことを知り、長谷川氏らは、せっかく伝えた情報が活かされなかったことに対して、非常に悔しい思いをしたという。
8月9日の場合はさらに深刻であった。同日未明に、やはりテニアン島から発信された同種の電波をキャッチし、再び原子爆弾を積んだB29が出撃したと、陸軍特種情報部の者は全員確信した。それは長崎に原爆が投下される5時間前のことであった。しかし、再びこの情報は参謀本部によって無視されたのである。長崎県大村飛行場の紫電改のパイロットをしていた本田稔氏は、もしこの情報が5時間前にわかっていたら、自分は体当たりしてでもB29を撃ち落としただろうと切歯扼腕した。紫電改もまたB29と同じ高度1万メートルまで飛行することができる戦闘機である。B29は確かに難敵ではあるが、現に撃墜した経験があるし、けして撃ち落とせない相手ではない、と本田氏は語っていた。
この後ネットで調べたところ、このエピソードは2011年のやはり8月6日に放送された「NHKスペシャル原爆投下活かされなかった極秘情報」を下地にしたものであることがわかった。それによると、この陸軍特種情報部は、著名な堀栄三少佐の陸軍参謀本部第二部(情報)の指揮下にあり、敗戦と共に同部の書類はすべて破棄され灰となり、戦後においてはその存在そのものが抹殺されてしまったのだという。堀少佐は、戦後も情報将校としての評価が高く、著書もあるが、この一件についてはずっと悔やんでいたという。当時の参謀総長は梅津美治郎であったが、ポツダム宣言を受諾するかの議論の真っ最中で、その上8月9日にはソ連の参戦もあり、重要な情報が活かせなかったのだろう、と同番組(ヒロシマ-世界を変えたあの日)では推測されている。しかし、どの時点で、誰によってこの重大情報が破棄されてしまったのかについては、いまだにわかってないというのである。

ここにNHKとは全く異なった別の視点を付け加えてみたいと思う。広島に原爆を積んで飛来したB29は、エノラゲイ、グレートアーティスト、ネササリーイービルの三機である。有名なエノラゲイは原爆投下機であり、グレートアーティストは観測機であり、ネササリーイービルは記録撮影機と、それぞれ別々の役割を担わされていた。ここで、素朴な疑問として思うのは、エノラゲイに護衛機がついていなかったのは何故か、ということである。爆撃機は重く小回りがきかないため、通常護衛機が配置される。B29の場合、P51戦闘機がその役割を担っていたが、B29ほど長距離飛行ができないため、硫黄島から発進していた。マンハッタン計画で三年もの準備期間をかけ、この戦争を終結させるという重大な使命をおびた作戦において、爆撃機に丸腰で行かせるというのはあまりに不用意ではないか。事実、テニアン島からの出撃は陸軍特種情報部によって把握されていたし、どこかで偶然発見されたかもしれない。紫電改のパイロットが語ったように、もし発見されていたら撃墜された可能性だってあるのである。確かに大編隊で行けば目立つし、その分発見されるリスクも高まるだろう。しかし、迎撃のことを全く想定しないで重大な作戦を実行するというのは、あまりに無防備すぎはしないだろうか。また、長谷川良治氏らが発見したテニアン島において特別訓練を行っていた特種任務機の数は、12機から13機だったというが、それが、当日には3機に減らされてしたまった理由についても気になる。これらについて、NHKの番組では、全く触れられていない。
これらの点について、ある恐ろしい仮説を示唆してくれる書物がある。それは、柴田哲孝著『異聞太平洋戦記』である。同書の一篇「超空の要塞」には、次のような記述がある。
昭和21年3月5日、著者の祖父が勤務していたインドネシア産業(実在する亜細亜産業のことを指す)の女性事務員のところに、夜中に専務が突然やって来て、
「ここを出た方がいい。たぶん、3月の9日か10日だ。東京に大空襲がある。本所のこのあたりは、火の海になる。荷物をまとめて、どこかへ逃げなさい」
と告げて姿を消したという。
彼女は上司の言葉を信じて、大切な荷物だけをリヤカーに積んで、埼玉の姉夫婦の元に疎開したという。そのため、3月10日の大空襲に遭わずに済んだというのだ。しかし戦後も、上司が、なにゆえ大空襲のことを知っていたのだろうかと、不思議でならなかったという。ちなみに、『異聞太平洋戦記』は小説の体裁を取っているが、このエピソードは著者の他の作品にもしばしば登場してくる。そして、ノンフィクション作品として発表された『下山事件 最後の証言』によれば、インドネシア産業は亜細亜産業であり、その社長は矢板玄で、戦中は特務機関の総帥として活躍し、戦後もGHQとの間に太いパイプをもち、フィクサーとして暗躍していた人物だったという。戦前の話なので、まだ米軍とのパイプはないはずだが、何故矢板ら亜細亜産業の幹部は、このような機密情報を知り得たのだろうか。
この謎を解くために、柴田は、アメリカノーフォークの国立公文書館に飛ぶ。そこで、次のような書類を目にする。1945年1月28日の空襲では、日本軍の迎撃に遭い、出撃機73機のうち、目標地点に至ったのは僅かに28機、そして、迎撃により9機のB29が撃墜されていた。そして、広島の場合と同様、アメリカ空軍の出撃は、事前に日本の諜報機関によって筒抜けだったという。そして、問題の3月10日。出撃前日の記録には、不思議なことが書かれていた。
この日作戦に参加したすべてのB29に、最大爆弾搭載量(2.265トン)の約3倍に相当する6.5トンから6.8トンの焼夷爆弾が積み込まれた。さらに、11名のはずの搭乗員が7名にまで減らされ、減らされた4名は機銃射手だったいう。そして、装備火器がすべて取り外されてしまった。要するに、焼夷爆弾だけを目一杯積み込んで、後は丸腰だったということになる。あまりに無謀な計画だったため、上層部は我々を見殺しにするのかと、兵士たちの間で大騒ぎとなった。エドワーズ・クレメンス大尉の第73爆撃団司令官エメネット・オンドル准将に対する上申書が残っているが、それには次のように書かれている。
「すべての装備火器を取り外し、4名の射手も搭乗させないというのはどのような理由なのか。日本軍機の迎撃に際し何の武器を持たずにいかに対処すればよいのか。友軍機に被害があった場合に備え、責任の所在を明らかにするために異議を申し立てるものである」。
しかし、この上申書は却下されてしまう。この時、日本には、調布、立川、入間に、飛燕、鍾馗などの陸軍機、零戦、月光などの海軍機を合わせると、首都防衛可能な戦闘機がまだ300機ほど残っていたという。米軍兵士が恐れるのも無理なからぬところである。また、ある兵士は、パワー准将に「死にに行けというのか」と直談判したところ、准将は笑ってこう答えたという。
「日本軍は出撃してこない。だから、安心しろ」
これが、『異聞太平洋戦記』「超空の要塞」の要旨である。広島の時は、3月10日から連日連夜空襲が続けられ、迎撃できる戦闘機がほとんどなかったから、B29はほぼ丸腰に近い形で飛来したのだというのが、戦史家たちの一般的見解である。NHKの立場も、これに準じたものと言えよう。しかし、紫電改パイロット本田稔氏の証言は、この見解の矛盾点を、見事に露呈させているのだ。B29と同じ高度1万mまで飛行可能な紫電改が、1945年8月8日の時点でまだ存在していた。紫電改が一機でも残っている以上、B29による作戦計画は万全ではなかったはずだ。
NHKの二つの番組と『異聞太平洋戦記』を見比べると、広島の原爆と東京大空襲には、驚くほどの類似点があることに気づく。米軍B29による空爆は、日本軍による迎撃機の存在を無視した形で行われ、一方、日本側はB29の出撃を把握しておりながら、その情報は全く活かされず、ほとんど迎撃することなくみずみす敵の蹂躙にまかせ、都市を焦土化してしまった。さらに、NHKスペシャルでは、日本の諜報機関が米側の電波傍受によってB29が出撃した場所及び時刻を把握し得た方法について言及しているが、この方法はすべての空襲について可能だったはずである。ゆえに極論すれば、すべての空襲は迎撃可能であったにもかかわらず、日本軍はあえてそれを実行に移さなかった、ということになるのではないか。しかし、これはあくまで空襲約5時間前に敵機の出撃を予測できたと言うことであって、『異聞太平洋戦記』にあるように、東京大空襲の5日前に予測することは、絶対に不可能であったはずだ。なぜなら、日本の諜報機関は米軍の暗号を解読できていなかったからである。では、なぜ予測できたのか。柴田氏は、次のようにその理由を述べている。
「インドネシア産業の幹部が東京大空襲のことを知っていたとしたら、当然、軍部や日本政府もその情報を得ていたわけですよね。だとしたら、政府は知っていながら十万もの国民を見殺しにしたことになる……」(同書、16頁)
先ほども述べたように『異聞太平洋戦記』は小説の形をとっているので、たとえこれが作り話であっても問題にはならない。しかし、同じエピソードはノンフィクション作品にも登場するので、これに作り話を載せることは、倫理上到底許されない。さらに、これは著者の祖父の会社の従業員という、いわゆる一次情報よりもさら信頼性の高い、絶対に否定しようのない真実として、著者に突きつけられていたはずだ。ちなみに柴田氏は、ツチノコや雪男などUMA(未確認動物)のファンであり、UMA関連の小説も多い。しかし、その帰結は大抵UMAと思っていたのが実は実在する希少動物だったというものである。このような従来の著者の常識的見方の根底的転換を迫ったのが、恐らくこの3月10日の5日前に空襲を予告した日本人がいた、という事実なのではないか。もし先に述べたような恐ろしい仮説を排除するためには、予知能力とか、さらにオカルト的な迷路に踏み込まなければならないことになろう。
柴田氏は、東京大空襲のことを軍部や日本政府が知っていたのではないかと仮説を立てたが、NHK番組によれば、諜報機関から上がってくる情報を受け取る一部の軍人たちだけが、その情報を上に伝えなければ、日本軍機の迎撃を阻止できた可能性がある。そして、この阻止した側にも、それなりに正義や正当性があったのかもしれない、という気がするのだ。すなわち、太平洋戦争の勝敗はすでに決しており、もし本土決戦などと、女性や子どもたちまで駆り出して竹槍で迎え撃つなどという馬鹿な真似をすれば、より多くの犠牲者が出たことは必至である。それよりも、日本の主立った都市を米軍にやりたい放題に空襲させ焦土と化すことによって、国民の戦意をそいだ方が、結果的には戦後復興に役立つのではないか、ということである。さらに、5日前に知るためには米軍の情報を知り得るスパイの存在が不可欠だが、日本に連合軍のスパイがいなかったと考える方が、かえって不自然である。当時、米国にはソ連のスパイがおり、イギリスとドイツにも、互いに相手国のスパイが存在していた。そして、軍部に戦争終結勢力や米国のスパイがいたとしても、戦後、しばらくGHQが日本を支配したことによって、その存在を完全に消し去ることは十分可能だったはずである。
私は、NHKの「ヒロシマ-世界を変えたあの日」を見て、このような疑念がムクムクと湧いてきた。日本人の太平洋戦争における犠牲者の数は310万であり、これは悲劇として深い悲しみとともに受け止められてきた。しかし、考えてみれば、ドイツにおける第二次世界大戦の犠牲者は700万人以上であり、ソ連においては2千万人を超えるとされている。ドイツもソ連も、共に本土決戦を行った国であり、そのことによって、これほどまでに多くの犠牲がもたらされたことは確かであろう。さらにドイツの場合、独ソ戦、とりわけベルリン攻防戦において、多数の婦女子たちにソ連軍による陵辱や暴行が加えられ、それはドイツがソ連に対して行った残虐行為とは比較にならぬほど凄惨なものであったと言われている。しかし戦後ドイツは、ナチズムの問題を抱えていたため、これについては一切言及せず、ひたすら沈黙を守るより他なかった。日本でも、本土決戦・一億玉砕が叫ばれたが、その背景には、婦女子が辱めを受けるくらいなら全員死んだ方がましだといった思いがあったに違いない。しかしドイツではそれが、現実のものとなっていたのである。もし歴史の歯車が少しでも狂い、日本とソ連が本土決戦で直接相まみえるようなことになっていたとしたら、ドイツと同じ運命を辿っていたかもしれないのだ。
戦争末期に暗躍し、戦後はその存在を消された者たちがもし本当にいたとすれば、その思いは、多くの人々の命と引き替えに、実を結んだと言えるかもしれないのだ。


花田春兆氏を偲ぶ

2017-08-04
その他
5月16日、花田春兆氏が永眠された。91歳というから、まさしく大往生と言ってよいであろう。戦後の障害者福祉史に巨大な足跡を残した偉人の死に対して、巨星墜つといった感慨を禁じ得ない。一方、マスコミの取り上げ方がそれほど大きくなかったことについては、大いに不満が残った。
花田春兆氏のことをご存知ない方のために一言説明しておこう。花田氏は、大正14年に生まれるが、その後脳性まひの診断を受け、言語障害や運動障害が残ることが明らかになった。9歳の時、東京市立光明学校(現都立光明特別支援学校)に入学し、小学課程を卒業後、研究科に進み、この時、俳句と出会うこととなる。研究科卒業後は在宅で過ごすが、昭和22年、身体障害による初の同人誌『しののめ』を創刊し、当事者による表現活動の場を提供していくこととなる。「しののめ」は文学活動だけではなく、障害者運動にも積極的に関与し、SSKO(身体障害者団体定期刊行物協会)の設立もその成果の一端として挙げられる。
 花田氏は、若い頃より、中村草田男に師事し、萬緑新人賞、角川俳句賞、俳人協会全国大会賞、萬緑賞を受賞し、輝かしい実績を残している。しかし、筆者には俳句の素養がなく、氏の作品について十分に語るだけの言葉を持ち合わせていないため、他の仕事である小説や随筆などについて触れてゆきたい。これらの分野でも、花田氏は膨大な作品群を残している。例えばそれは、『鬼気の人―富田木歩の生涯』、『心耳の譜―村上鬼城の作品と生涯』、『幽鬼の精―上田秋成の作品と生涯』であるが、これらに共通するのは、氏が題材として選んだのが障害者の偉人だった、という点である。すなわち、障害者自身による障害者の伝記作家というスタンスであり、これは、氏が「障害者作家」を自認する所以でもあろう。中でも燦然とした光芒を放つのは『殿上の杖―明石検校の生涯』である、と筆者は思う。これは、南北朝の激動の時代、足利尊氏の従兄弟でもある盲目の琵琶法師・明石覚一が平家琵琶の集大成である覚一本を確立し、一方、我が国の福祉の原点とも言える盲人の互助組織「座」の設立に尽力した経緯が詳細に描かれている。文学・障害者運動の両面で活躍した明石覚一の生き様は、氏のそれにそのまま重なってくる。もう一つ、明石覚一は足利尊氏の縁者だが、花田氏もまた大蔵官僚や海軍の高級将校らを親類に持ち、いわばエリート障害者といった側面があることは否めない。しかし、明石覚一にせよ花田春兆氏にせよ、単なる出自が良いだけで、到底こんな活躍ができるわけではないのである。ちなみに、筆者の知人で障害当事者のS氏も花田氏の心酔者の一人だが、花田氏がある雑誌の中でS氏のことを「単なるお坊ちゃん障害者ではない」と評したことが、彼をいたく感激させたことがある。この言葉はそのまま、花田氏自身の自負であったのではないかと、筆者は推理している。
『殿上の杖』は、緻密な時代考証を踏まえた上での、恋あり、スリルありの上質なエンターテインメント作品として成立している。筆者は、かねがねこの作品はNHKの大河ドラマの原作としても十分通用するのはないかと思っていたのだが、つい先日風の便りに、氏自身もそのような思いを抱いていたという話を聞いた。この作品は、氏の大衆作家としての筆力を十分に感じさせる出来映えになっているが、氏ほどの才能があれば、そのような作品を量産し、流行作家としての地位を確立することも可能だったのではないか。氏が自らを「障害者作家」として規定していたのは、その立場を有利に働かせるためにではなく、むしら自らの志を全うするために科した枷だったのではないか、と思えてくるのだ。
 いずれにせよ、花田氏は91年間の人生を十分に生き抜き、それは、氏にとっても満足の行くものであったに違いない。棺桶の窓から覗くその死に顔は、まるで仏様のようであった。



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